重症心身障がい児の母となった私の記録⑤【生後3カ月~8カ月NICU卒業】

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管理人じめこの紹介

2017年に注文住宅で平屋の家を建てました。
現在夫と12歳の重症心身障がい(全介助・気管切開・胃ろう)の息子と暮らしています。
ワンオペ育児に加えて息子の急な体調不良や入退院なども多く働きたくても働けない40代専業主婦です。
そんな私がゼロ知識で本サイトを立ち上げ、家づくりや日々の出来事、おすすめ品や息子のことなど綴っています。
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はじめに

ご訪問ありがとうございます。
当サイト管理人のじめこです。

本編にいくまえに打ち明けなければならないことがあります。
散々障がい児育児について分かったようなことを書いている私ですが実は自分の子育てが失敗だったと思っています。

その失敗とは夫と育児を協力しなかったこと。
最大の後悔です。

言い訳をすると初めての育児で医療ケアもあって何をするにも余裕がなく、夫婦で協力することが面倒になってしまったのです。
協力してもらうことを諦めたというのが正しいですね。
夫は仕事が忙しく家にいないことも多かったし、不器用なので自分がやった方が早く育児のストレスも最小限に抑えられました。

夫婦で育てにくさを感じていたし私以上の戸惑いがあったのでしょう。
夫も進んで世話をすることはなかったです。

もともと自分の苦手分野は何かと言い訳をして逃げていたので協力を求めると嫌々行う態度にこちらまで気持ちが萎えてしまうのです。
今でも出来ることは数少なくオムツ替えもろくに出来ません。
育児の戦力としてはほど遠い存在なのです。

たまの休みの日に「〇〇(息子)、見ていてね~」ってお願いしても本当に見ているだけ。
辛うじて気切吸引は教え込みました。

今だから言えますが、どんなにめんどくさそうな顔をされてもイライラされても辛抱強く教えるべきだったと後悔しています。
息子にかかわる比重は私9割夫1割。
それは家庭内におさまりません。

病院でも学校でも求められるのは私(母親)。
私もそれが当たり前だと思っていました。
でもいつからかモヤモヤが芽生え・・・。

なぜ主たる介護者は母親なのだろう?(そうではないご家庭もいますが)

子育ての中心は女なのだろう?

なぜ夫は変わらないのに私は我慢やあきらめが身についてしまったのだろう。

先生、夫といるのに私にだけ息子の様子を聞かないでください。

ドクター、お母さんの言うことが一番ですからって言うけどずっと責任が重いです、毎日息子の状態を見逃さないよう必死ですよ。


この失敗は軌道修正出来るのでしょうか?これまた長い戦いになりそうです。

愚痴っぽくなりましたことをお許しくださいね。

では本編、重症心身障がい児の母となった私の記録⑤【生後3カ月~8カ月NICU卒業まで】となります。
前の記事をご覧になりたい方はコチラ↓
>>>重症心身障がい児の母となった私の記録④【生後2カ月まで】

生後3カ月目

体重2100gに到達。
息子は人工肛門のおかげで度重なった壊死性腸炎の再発もなく生後3カ月目を迎え、やっと赤ちゃんらしい肉付きになってきました。

初育児で新生児がどうなのかわからないのですが息子は1日のほとんどを泣いて過ごし全く寝ない子でした。
泣くと他のどの赤ちゃんよりも声が大きく私がいないときは看護師さんを大泣きで呼び、抱っこを求めよくしてもらっていたそうです。

哺乳は相変わらずで時間をかけても30㏄しか飲めず、ほとんど経管栄養に頼っていたので口から飲めるようになるのかしらと不安になったものです。

私はというと以前は恐る恐るだった沐浴や抱っこも板についてきて、NICUという空間の中では育児を楽しめていました。

けれど一歩外に出てしまうと赤ちゃん連れの親子がうらやましいしく、小さく生んでしまった負い目と悲しみは消えたわけではありませんでした。

夫婦の変化

私達夫婦にも変化がありました。
転院後まもなくは病院に対していい印象はなかったのですが、息子の状態の安定と同時に私達夫婦の病院への印象も変わっていったのです。

主治医と治療方針や私不在の息子の様子を聞いたり看護師さんと他愛もない話をしたり、コミニケーションを密にとることで私達の気持ちもほぐれていきました。

人工肛門を閉じる手術

2100gの体重になり人工肛門を閉じてもいいだろうとなりました。

その日はすぐにやってきて手術室まで見送るのですが何回やっても涙が出ました。
命どうこうの大きな手術ではないにしても、この小さく生まれた赤ちゃんが手術をする事実が可哀相だし申し訳ないし、家族控室で待っている間はいつも落ち着きませんでした。

毎回手術を終えてNICUに戻ってくるのですが、麻酔をかけられている間は気管挿管され、それが痛々しくて胸が締め付けられました。

またしても続く壊死性腸炎

生後3カ月、体重2100gを超えての人工肛門を閉じる手術は無事に終わったのですが、それからも息子はこの壊死性腸炎に苦しめられました。
術後5日目に再発したのです。

主治医の説明では腸の同じ部分が破れたのではなくまた別のところが破れたというのです。

毎回ですがこれで手術は最後と信じています。
ですがその願いはいつも裏切られて主治医からの連絡に「あぁ、またか」と悲しくなりました。

ショックだし辛いし、なんで?ってもうよくわからない感情です。
でも私達は任せるしかありませんでした。

手術は壊死した部分を取り除き縫合、再び人工肛門を作りました。
時機を見て閉じるための手術をするのですがその後も同じように腸が破れてしまい、そのたびに人工肛門を造り、退院までお腹だけで6回手術をしました。

そして生後6カ月の手術が最後となりましたが度重なる壊死性腸炎で息子の腸は3分の2の長さになってしまいました。

幼い頃は腸が通常よりも短いため基本的に緩い便でした。
体調を崩したり抗生剤を飲むと緩い便がさらに緩くなり水便となるのでのオムツ替えも一苦労で服やシーツを何度洗ったか数えきれません。
加えてよく吐く子だったので上からも下からもの時は地獄絵図でした。
体の成長とともに腸も長くなり人並みの硬さとなりましたが便秘や下痢になりやすいことは今も変わりません。

息子のお腹の見た目は手術跡でぼこぼこになり痛々しくはありますが、反対に赤ちゃんながらにも必死に頑張ってくれた勲章にもなりました。

水頭症のその後

息子の手術歴は水頭症のシャント手術から始まりました。

脳だけで言えば術後順調だったしもう大丈夫と思っていたのですが、こちらも私達の想像とは違っていました。

いつだったか記憶が曖昧なのですが壊死性腸炎が再発しなくなってから外科医との面談があり説明を受けたのです。

水頭症の術後から脳の成長が停滞している。
説明を受けたのはこうでした。

水頭症の治療としては問題なく終わったが、術後の脳の回復時期に壊死性腸炎が重なったことで体がお腹の治癒に集中してしまい脳の回復や成長が停滞、以降脳の大きさが変わっていないというのです。
簡単にいうと息子の体がお腹を治すことに集中して脳を回復させることに疎かになってしまったという感じです。(※うまく表現できずすみません)

大きなショックを受けたとと同時に私は息子が本当に障がい児になってしまうの?と怖くなりました。

この頃の私はそうは言っても障害を持つことはないだろうとどこか楽観的だったのです。

メモ

出生時の平均的な脳の重さは約300gで生まれてから赤ちゃんの脳は急速に発達し生後半年で約2倍に成長します。脳の発達は重さだけで測れるものではありませんが、急激に重くなるのは乳幼児期の特徴です。
周りの刺激に対して非常に敏感であり、視覚や聴覚などの感覚に触れることで、脳の神経回路が発達していきます。


そして外科医が再度脳の可塑性の話をしてくれました。
▼脳の可塑性記事はコチラ↓


当時の私達は可塑性を信じるしかないと毎日を過ごしていたように思います。

退院後は、脳の発達に良いとされるクラシックを毎日聴かせていました。
ただ昼夜問わずギャン泣きの息子にそれが響いたのかどうかは疑問です。

余談ですが、脳が育っていない、それがどういうことなのか息子が年齢を重ねて実感したことがあります。
小学校に上がるまで息子は赤ちゃんサイズの帽子のサイズしか合わず、最近になってやっと対象年齢5歳前後がぴったりになりました。


生後7ヵ月

7カ月になり息子は体重が5900gまで増えNICUの中では体も泣き声も大きいのでひと際存在感を放っていました。
そして私は毎日家で搾乳した母乳を持って通う日々で壊死性腸炎は起こらなくなりましたがいつ再発するかいつ医師からの電話が鳴るかビクビクと不安はついて回りました。

そんな時退院の話が出たのです。

当時の私のマインド

退院が決まって不安が募りました。
障害がどういうものか分からないし育児自体が初めてなので2重の不安がありました。
NICUという異空間で守られていたので実生活の想像もつかなかったし、どこまで大変なのかも良くわかないけれど退院決定の嬉しさよりも心配の方が強かったです。

退院の話が出てから病院のソーシャルワーカーさんとの関わるようになり使える福祉サービスや制度を教えてもらい手続等を進めました。
何が何やら分からないけれど言われるままに任せましたがとても心強く親身になってくれました。

NICU内でも私が吸引や経管の挿入を家でも出来るよう看護師さんとの練習が始まり、1日があっという間に過ぎて退院する頃には季節が冬から夏に変わっていました。

退院前母子同室

退院前に母親と赤ちゃんだけで過ごす母子同室という儀式みたいなものがあり3泊4日か4泊5日か息子と病室で過ごしました。
それが本当に過酷で今もトラウマです。

母子同室は個室ではなく相部屋で、赤ちゃんにかかわるすべての育児を母親1人でやり遂げなければならず看護師さんは助言くらい。
夫や義理の家族の面会はありましたがそれ以外息子と2人きりです。

NICUでやってきたとはいえ1人での世話をするのは初めてて、相部屋ということもあり気も使い、置いたら泣く子だったため騒がしくしてはいけないと息子を昼夜問わず抱っこし続けました。
自分のトイレも食事もままならずいわば修行です。

初日からほとんど寝ることもできず、翌日も抱っこじゃないと息子はギャン泣き。
この子はいつ眠るのだろうと心配になったくらい寝ないし泣き続ける始末。

疲労もたまり睡魔に襲われても息子は私が休むことを許してくれない。
この期間中、同室の人に迷惑がかかるので夜は病棟のロビーで過ごしていたのを覚えています。

母子同室が終わる前の日だったと思うのですが、その夜もロビーで抱っこで過ごしていてました。
ただこの日は夜勤の看護師さんが見かねて声をかけてくれて私は眠気と疲労とあまりに辛すぎて号泣してしまったのです。

優しい看護師さんだったので泣きじゃくる私の話をずっと聞いてくれて本当はダメだけどお母さんつぶれちゃうからと2~3時間だけ息子を預かってくれたのです。
そこでやっと横になり眠りにつけたのです。

2,3時間だけ預けてもしっかり睡眠がとれるわけではなかったのですが24時間近く続く超耐久抱っこレースからやっと脱出することが出来て看護師さんには感謝しかありませんでした。

今思えば寝ない息子との闘いの序章に過ぎなかったのです。

生後8カ月で退院

長いNICUを経て退院の当日はとても暑い夏となりました。
退院することが現実のように思えなくて嬉しいというより一緒に暮らすことが不安であり不思議でした。
その日を待っていたのか遠ざけていたのか微妙なところです。

お別れの時主治医からかけられた言葉が忘れられません。
「大変だけど頑張ってください」と。

その言葉は退院して息子との生活が始まり身に染みることになりました。

1日1日2人の時間が辛くて寝不足と孤独との闘いでした。
愛情をかけることより息子が1日を無事に生きることに全力を注いでいました。

そしてここからが本当の障がい児の母親のスタートでした。

障がい児の母となった私の現在 ~小休止~

極低出生体重児として生まれた息子はこの春小学校を卒業し中学生となりました。
成長とともに胃ろうや気管切開の医療ケアも増えました。

私は学校の付き添いをしたり、成長期の息子の体の変化に戸惑ったり、緊急入院で病院駆け込んだり毎日慌ただしく過ごしています。

そしてここに至るまで沢山の人に支えられて息子の母13年目に突入しました。

私の経験が誰かの心に少しでも残ってくれてたらいいなと始めたこのシリーズはまだ伝えたいことが山ほどあるので続けていくつもりです。

ですが、ひとまず小休止。

思い入れがある分しっかりと文章に残したいと思っています。
その他の記事は更新していきますのでご興味ある方は覗きに来てもらえると嬉しいです。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

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